山根綺のほんとのところ。
https://www.animatetimes.com/tag/details.php?id=15097
努力と結果、それが山根綺さんのトラウマであり、進路を定める確固たる行動原理であり
現在も彼女が抱え続ける人生の課題である。
高校に入学して間もなく受けた学力テストで彼女は直面する。
私は生まれて15年目の春、初めて挫折をしました。
そしてその次の日から、勉強が出来なくなりました。
理由はシンプルです。
誰のために勉強したら良いのか分からなくなって
自分のために努力をしたことがなかった私は
努力しないと越えられない壁にぶち当たりました。(『山根綺のほんとのところ。』#3)
なまじ初期値が高い人間がいずれは経験する他人への敗北と自信の喪失。
そうして精神的に荒れ狂った彼女は学業を放棄し、最終的には引きこもり状態になってしまう。
しかし絶望の中で声優という職業に希望を見出す。
足りない才能は努力で補わなければならない。
そうしないと夢は叶わない。
欲しいものは手に入らない。
その現実を自分で思い知っただけなのです。(『山根綺のほんとのところ。』#3)
ありのままの自分では敵わないことを悟った彼女は声優になるために努力することで、人生を好転させていく。
ここで注目すべき点がある。
良い子にしていれば、勉強や運動が出来れば、
母や、学校の先生や、大好きな塾の先生が褒めてくれる。
良い成績を取ったら嬉しそうにしてくれる。喜んでくれる。
そんな大人からの評価に、少しずつ依存していくようになりました。(『山根綺のほんとのところ。』#3)
挫折する前の彼女は、周囲の期待に沿うような「他人のための自分」を演技していたのだ。
専門学校で初めてお芝居をやって
自分でいなくてもいい時間が生まれた瞬間に
心が、すごくすごく楽になりました。
「あぁ、これをずっと続けていたら苦しくないかもしれない」(『山根綺のほんとのところ。』#3)
翻って、声優も「自分ではないキャラクター」を演じる点では同じように見える。
単に乗り換える先が違っただけで自分を置いて演技することには変わらない、そう短絡出来なくもない。
しかし彼女が声優に特別の救いを感じた言葉が続く。
お芝居は自由です。
自己表現することの可能性は、無限大です。
たとえ自分の才能に限界を感じて苦しくなったとしても
表現することを好きでいられたら、
またきっと、私を救ってくれる気がするのです。(『山根綺のほんとのところ。』#3)
まず定められたキャラクター像があって、その目標に向かって一致するように
生身の自分の上に積層していく努力の過程に、自己と自由を感じているのだと考えられる。
だとしたら彼女にとって声優は、仮面ではなく塑像のように
自己を芯にした延長線上の存在と言えるのかもしれない。
そのように努力を手段に自己肯定感を高めた彼女を象徴する数々の言葉がある。
まわりみち、それもちゃんと道。
この世に正解なんてなくて、正しい道も無い。
だから、選んだ道を正解にする。(『山根綺のほんとのところ。』#2)
選んだ道を正解に「する」、これはあまりにも意思が強い宣言である。
多くの一般人は、結果的に選んだ道が正解になったとしか語れないはずだ。
努力は普通に裏切る。
でもきっと、そこで見つけたもの全てに
無駄なものなんてない。(『山根綺のほんとのところ。』#9)
他人が判断する結果は報われなくても、自分には報いるということだ。
向き不向きって他人が決めることじゃなくて、
自分の意識が向いているか向いていないかでしかない(『山根綺のほんとのところ。』#9)
適性でさえ努力で乗り越えてみせるという自負さえある。
ここまで来ると、彼女の努力への思いは信仰に近い。
努力で打開できる限りは、ファンも安心して彼女を応援出来るだろう。
しかしやがては彼女も障害にぶつかるはずだ。
人生の8割は思い通りにいかない
この言葉は私の母が言っていたものです。きっと、たくさん苦労してきたから
導き出された結論なのですが
そう思うと楽になるよっていう
処世術という意味もあるような気がして。
“まあいっか精神”
山根のようなタイプの人間は
一番持つことが難しいこの気持ち。(『山根綺のほんとのところ。』#12)
自分と他人、あるいは世界と折り合いを付ける決断の時は必ず来る。
努力の末の真の自分の限界、自分ではどうにもならない運命、運が人の器にたくさんの才能を与えた天才との競争。
そのどれもが努力を手にした彼女を再度挫折させる原因にもなりかねないものだ。
それらに妥協するというのは主体性を失うのと同義で、彼女は決して受け入れられないだろう。
ファンも試練に対して安易な処世術で乗り切ろうとする彼女を見たくないはずだ。
解決には努力を尽くした者が行き着く境地でもってするしかない。
彼女のもう一段階の成長はそこにあって、それを間近に感じられるのが声優オタクの醍醐味というものだろう。