結城友奈は勇者である 勇者の章は失敗作である

2017年秋アニメの『結城友奈は勇者である』は前半の6話を既に劇場公開された鷲尾須美の章、後半の6話を前期の続編である勇者の章という異例の2部構成で放送された。

 

しかしながら勇者の章は失敗作と断じなければならない。

ほぼ全ての原因が尺不足にあり、次に日常ものとしての制約がある。

 

支流とも言える鷲尾須美の章が合流する形で勇者の章が始まるのだが、両者は物語として共に独立性が高く

全12話の一つに融合された作品として楽しめなかったのだ。

関連性はあるが別作品のように受け取れてしまい、当然勇者の章が6話なのは短く感じた。

 

親友を庇った際に主人公の友奈の胸に烙印が生じたところが勇者の章の起点である。

傷や痛みを上手く用いながら物語を作ってきたタカヒロ氏の新境地がこの作品で見られると期待はしたが、それは裏切られた。

友奈が命を削る胸の烙印に苦しみ仲間に打ち明けられずに悩む展開なのだが、その解決に向かう流れが余りに稚拙だった。

烙印のことを他人に話すと神の祟りにより相手が不幸な目に遭う設定だったが、そのことを記した友奈の日記を発見されることで仲間に発覚してしまう。

主人公と仲間の間の秘密を両者の交流を丹念に描いて明らかにしていく過程を省いているのだ(日常ものとして隠し事を書いた日記が見つかってバレた、という流れは微笑ましいのかもしれないが)。

アクシデントではなく、傷を持つ者と持たない者のすれ違いや融和の果てに烙印の存在が発覚したならば、そこには視聴者を感動させるドラマがあったに違いない。

 

友奈に痛みをもたらし死に導くその烙印は、友奈の命に影響はあれど世界の命運には関係がなかったはずだ。

しかし原作者のタカヒロ氏は友奈をただ一人で死に向かわせるのではなく世界の存続を道連れにすることにしたのだ。

ここにまた命を終えようとする世界の守護者である神樹様という存在がいる。

それを延命させるための神婚と呼ばれる結婚の儀式があり、その相手として友奈を選ばせたのだ。

神婚の果てに肉体を持たない高次の存在になるのだが、そこで描かれる友奈の特攻にも似た犠牲の精神と

それを食い止めたい仲間の友情との相剋がタカヒロ氏が設けたこの作品のクライマックスのようだ。

結局後者が成功するのだが、言うなればこれは内乱である。

本来内乱が達成されるのならば、支配者たる神樹様に辿り着くまでに統治機構である大赦の構成員との衝突があるはずだ。

しかしながら神婚によって、主人公と神樹様をショートカットすることで日常展開から世界の救済にひとっ飛びさせてしまったのだ。

日常ものとしての作品の性質を守りたい為に政治的な描写の回避を重ねながらも、結局回避しきれずに低次元の政治が描かれる作品となってしまった。

政治を描けとは言わない。主人公はただの中学生だからだ。

政治を描かなくても不自然に思われない設定を上手く設けるべきだったと思う。

 

唯一の体制側の実名の大人の存在、それが安芸なのだが、彼女はこの作品の矛盾を体現してしまう存在になっているのだ。

鷲尾須美の章では、その章の主人公たちの担任の教師として登場し教え子の一人を亡くすという過去を持っている。

そして勇者の章では大赦の神官として友奈たちとの間で仲介役を演じている。

彼女は勇者の章の前半では、個の犠牲より全体が優先すると言った論理で友奈に神婚を勧めるのだ。

その行動に至るまでの葛藤の描写が圧倒的に不足しているので、子供に犠牲を強いる彼女の内心が分からない。

その後友奈たちが戦いに勝った後の言動が更に視聴者を混乱させる。

なんと友奈たちを称え肯定するのである。

この結城友奈は勇者であるは、日本の戦時を彷彿させる設定や物語なのだが

終戦後に「転向」した日本人に安芸を当て嵌めたわけではまさかないだろう。

そのような軽薄な人物ではないが、尺不足から来る描写不足で性格が掴めないキャラクターになってしまった。

 

日常が日常のまま終わるのは平和な世界だけだ。

戦いと日常が綺麗に切り替わりすぎるこの作品からは、いくらフィクションのアニメとはいえ不自然しか感じられないのだ。