ネットの創造主

彼の立場と行いは神のそれに似ている。

一人で創造する自由には喜びと恐れがある。

 

まずは壮大な構図があり、その設計図により世界の輪郭が定まり内部が構成される。

綴る過程は単なる作業ではなく、具体的に表すことで世界と細部をより精緻なものにする工程である。

 

それまで己の中に存在していた想像が形となることで客観視できる状態になり、それは興奮を呼び起こす。

しかしその興奮は長くは続かない。

価値が定まっていないからである。

 

完成にはまだ途上とはいえ、形になったものは他者が観測することが可能である。

他者故に神の価値観とは同一ではなく、その差異を埋めるべく言葉により評価が下されることになる。

その評価を認めるのか、無視するのか、創造主たる我こそが世界の最高位の立場にいるはずなのにと胸中に疑問を抱きながらも

判断を迫られることになる。

 

しかしながら始めから他者の存在は意識していたはずである。

想像を自らの内に留めて置かず外部に創造したというのは、つまりはそういうことである。

 

他者の存在は、自分が同列の者の一人に過ぎないことを認識させ独善性を壊す。

純粋な自己満足というものは存在しない。

自分と他者が存在することの相克を乗り越えた神だけが、両者が満足する世界を完成させることが出来るのだ。