筆者は実写映画に何の価値も認めておらず、おそらく今後も観ることも無いだろう。
詰まらないなりに彼らの領域に留まっていれば良いのだが、制作者が漫画やアニメに原作を借りて
我らオタクの領域に近づいてくるのならば言及せざるを得ない。
筆者の遠い昔の記憶、そして今映画を観に行っている人たちの心情を想像したことを手掛かりに考えてみる。
まず映画は作品ではなく、イベントとして消費されている傾向があることだ。
観賞した後に作品の本質が振り返られることがない。つまり批評が無い。
なぜ面白いのか、なぜ詰まらないのか一般人が真剣に論じることは無い。
食事に似ていて、快不快の判断があるのみである。
複数人で観賞するというのも映画がイベント消費であることを象徴している。
それらと違って漫画は一人で読むものであり、アニメも同様にして楽しむように出来ている。
だから感想が生まれ、他者と語り合いたくなるのである。
次に、観賞した対価が先払いであることも映画が行き着いた現状を表している。
見させた者勝ちとなれば、作品の質よりキャストやインパクト重視になる。
そして、不確実なオリジナル作品より安心材料として既に知られた原作を元に制作するのは必然の流れだ。
先のイベント消費と結び付くが、例え詰まらない作品を観たとしても
彼は映画観賞自体を止めるという判断をせず、祭りに参加するのと同じで
時が経てばまた新たに映画を観に行くという行動を取っているのではないだろうか?
制作者がそれに甘えてしまえば、作品の質が上がることは決して無い。
最後に上映時間の制限がもたらす弊害を考える。
二時間弱で決着が付く物語の感動はチープである。
その時間に収まるように削られ省略されたものがあり、時間内に収めようとする強引さがある。
流石にアニメ映画は同じ過ちを犯さないように配慮されていて、内容が祭りものだったり外伝的なものが多い。
そして長編は時間の制約に縛られないように分割されている。
論じるまでもない無価値のものを語ったのは、オタクとして対岸の出来事ではないと思ったからである。
言うまでもなく劇場アニメは急増しており、それらが実写映画の悪いところを取り込んでしまうことを憂慮しているのである。
「作品」を楽しむ、そのことを我々オタクは忘れてはいけないのである。