本当の意味で百合は尊ばれているのか疑問がある。
自分を投影した男性主人公を通してヒロインを愛でてきた男性オタクを考察の対象とする。
彼は百合の関係にある二人の女性が心理的な交流が深まるほど興奮を覚える。
肉体的接触も激しくなることさえ積極的に望んでいる。
女性同士では互いに性的に侵略される不安が無いことが、彼が百合を支持する心情の根底にある。
従来自分を別の存在に投影して楽しんでたのとは違って、覗きの主体者としての卑怯な性質が浮かんで来る。
これが男性の百合オタクが嫌悪される理由の一つ目である。
創作の中においては偶然は有り得ず、百合も作者の意図で配置されているのである。
それを有り難がることは、自分が望み予期するものを快楽として消費するのは「豚」である。
鑑賞ではなく反応する態度はオタクが取るものではない。
人工の同性愛を欲望する姿が男性の百合オタクが嫌悪される最後の理由である。
百合作品と男性の百合オタクの関係は、創作作品とオタクの関係と相似である。
つまり、とあるオタクを批判するということは、やはりオタクの自分を顧みることに繋がっているのである。