別人の主人公

一昔前の少年少女は漫画やアニメの主人公に自分を重ねて夢中になっていた、と言えば今の若いオタクは鼻で笑うのかもしれない。

かつての主人公は、自己投影の対象であったのだ。

その主人公と仲間が体現する友情・努力・勝利の方程式を信じて疑うことは無かったのである。

 

しかしながら今の時代、物語の主人公と我々の間の距離は広がってしまったのではないだろうか?

様々な価値観や嗜好の拡がりの中にいる現代のオタクに応えることが出来るような

教科書的な模範となる主人公が生まれにくくなってきていることが最大の原因だろう。

そしてコンテンツ過多の現在、友情を築く過程や努力で成長する描写などの悠長な展開が許されないという事情もある。

そして漫画やアニメが「作りもの」であることで認識し、それらコンテンツを客観視できるまでにオタクが成長したこともあるだろう。

 

かつては観賞する者と同一化するほどの主体であり、今では距離を置かれ完全に客体になってしまった主人公、

彼が物語に存在する意味は変化してしまった。

物語の構造上、今も昔も彼が起点になってストーリーが展開することになるのは変わらないが、

登場する他のキャラクターとの関係性と自他のパーソナリティが描かれ方は違ってくる。

客体にまで後退した主人公は、他のキャラクターを舞台に上がらせるホスト役である。

ここに、主人公そっちのけの「キャラ萌え」が入り込む余地がある。

そして仮に、観賞者が主人公の性格や生き様に共感し一体感を覚えたとしても、彼は借り物で「乗り物」のような装置でしかない。

それは、彼の物語上の地位と立場への憧れでしか無かったのだ。

時間をかけて共に歩めなかった両者の悲劇である。

 

救いがあるとしたら、今の大人気作品の主人公は未だにファンから強く自己投影されており

その人生に影響を与えるほどの大きな存在なのである。

小さく燻ってはいるが確かに火は燃え続けているのだ。