けものフレンズというアニメは最初から理解されないコンテンツである。
それは1も2も変わらない。
初代けものフレンズは放送当初は見向きもされなかったが、3話から評価が覆り見事に覇権を得た。
対して続編のけものフレンズ2は、未だに評価にも値しない代物だと見られている。
しかし筆者は退屈な序盤を超えて視聴を続けていく内に、この作品の真価に気付いたのだ。
序盤は正に子供向けにシフトした感じを押し出ており、大人も考察できるような優れた前作と比較して劣化した印象を拭えなかった。
子供向け再放送用コンテンツとして、制作側は初回の放送が深夜に視聴するアニメオタクに支持されなくても構わず
日中の再放送で子供にヒットすれば良いと考えているのではないかと憶測をしてしまったくらいだ。
しかしそれは間違いだった。
5、6話に込められた制作者の意図と想いに筆者は深く感動させられたのである。
今作は、主人公のキュルルがスケッチブックに描かれた絵を手掛かりに自分の「お家」を探す物語である。
彼は自分でもスケッチブックに絵を描くこともする。後述するが、これは非常に重要なことである。
キュルルの随所で見られる閃きは、人類の知恵に相似するものが多い。
いくつか例を挙げると、ジャングルで争う二組のフレンズの問題の解決法として、
お互いの絵を描いた紙で争わせる紙相撲での対決を提案したことがある。
実体を離れた概念と代替物での戦いに持ち込むことで、戦いの形式を保ちつつ実体が傷付くことを回避させるヒトならではの知恵である。
洞窟での退屈潰しとして、スケッチブックの絵を破ってジグソーパズルのように再び組み立てる遊びを提案したこともあった。
元通りに戻す手間を、楽しみながら完成を目指す遊びに転換したのある。
いずれも子供遊びなのだが、人類の叡智に通ずるものがあるのである。
そんな彼のフレンズへのアプローチを対比させる為に、前作の主人公であるかばんが登場することになる。
決して今作品が続編であることをアピールする為だけに登場したわけではない。
かばんがかつて連れ添っていた一番の仲間であるサーバルに出会っても特に反応せず、心情描写が皆無だったのは理由がある。
おそらくサーバルはセルリアンに食べられかばんとの記憶を失った。
彼は悲しみ彼女の記憶を取り戻そうと努力をしたに違いない。
それは描写の無い過去である。
しかし今はジャパリパークの管理者的な立場でサーバルと対峙しているのである。
その間にきっとサーバルという個体から距離を取ることを決意させる何事かがあったに違いない。
それはジャパリパークの管理者の立場に納まることとは無縁ではない。
ペットのように個体を愛するのではなく、生態系の中の種の一員として博愛の対象にしたのではないかと思われる。
博愛といっても、薄まった愛ではなくより深い次元で相手のことを考えているのである。
彼のサーバルへの態度は以上の変遷を覗かせており、視聴者にその心情を想像させる手法で
彼の強い決意とそれでもなお残る悲壮感を強く印象付けることに成功しているのである。
かつては仲間であり今は管理されている関係のサーバルを象徴するアイテムがあった。
5話の研究所でお茶のおもてなしを受けた場面のサーバルが手にした砂時計である。
あまりにも分かり易すぎる暗示に苦笑してしまった程だ。
砂時計の構造上、尽きた時間を再開する為には逆さにしなければならない。
砂時計の中で繰り返される時間は同じではなく、記憶を失ったサーバルは例えまたフレンズになっても以前の存在とは違うのである。
かばんが彼女の記憶を取り戻そうとしないで距離を置いたということは、種の一員としての再生を願ったことを意味するのである。
個体としてのサーバルの永遠性は否定されているのだ。
当然対象はサーバルだけに留まらず、今後続いていくジャパリパークの生態系とその中のあらゆる種の維持を最優先にしようとする思想的転換があったはずだ。
その動物園の園長たるかばんと対比的な位置付けにある今作の主人公キュルルはユニークな存在である。
彼の特技の絵を描くことは時を固定することであり、仲間のフレンズを個体として愛することに通じている。
なので一見彼はペットの飼い主を代表する存在のようにも見える。
しかし必ずしもそうではないことを示唆する場面があった。
彼は自分の描いた絵を破ってジグソーパズルとして使ったのである。
これも永遠の時間の破壊と再生を意味しており、彼も後継者としてかばんと同様な素質を持っていることを伺わせている。
ただ、旅の目的がルーツを求めていたかばんとホームに帰りたいキュルルでは
重なるようで違いがあり、当然二人のゴールは違ってくるのだろう。
物語はようやく折り返し地点である。
けものフレンズ2は決して前作に劣っておらず、人間が動物の共存する動物園の在り方を巡るいくつもの思想が背後にあり
能動的に物語を読み解こうとする者にとっては満足出来る深い設定が用意されている。
作品が成立した経緯に無駄に拘ることで作品の中身を見ることを怠っている初代のけものフレンズファンとアニメオタクは、
自ら進んで除け者になっているのである。
そんな彼らも初代と同様に虚心坦懐に向き合えば、きっと作品から相応の手応えを感じ取れるはずだ。