泣きゲーなんて所詮、エロゲーを買えなかった奴のいいわけ - サブカル 語る。
https://arrow1953.hatenablog.com/entry/2015/10/24/071554
かつてエロゲの主流であった泣きゲーを批判し、エロゲの形式さえも否定するといった趣旨である。
今現在の衰退しているエロゲが批判の対象ならば納得出来る内容かもしれない。
しかしこの記事が書かれた当時の数々の名作が辿り着こうとした境地に関しては
一考すべきだと思い今回の記事を書くことにする。
泣けて、抜ける
このブログ主にとって双方は両立出来ないものと考えているらしい。
しかしエロゲをプレイした側からすると、両立するのは当たり前で
分けて考えること自体不自然だと思うのである。
ストーリーを通じてヒロインに泣けるほどに感情移入してしまったら、
その彼女の肉体も攻略したくなるのが人間の情である。
現実の例を持って来るまでもないが、彼女を讃える言葉を贈るだけでその肉体に手を伸ばすこともせずに
精神的に絶頂を迎えてしまうのは童貞なのである。
改めて言わせてもらうと、泣いて抜けるなら最高だ。
CGの男女の性描写で野郎どもを興奮させる二次元ポルノだぞ。
ゲームの主人公を通して追体験するとは言え、ヒロインとのセックスが第三者の視点で可視化されてしまうのだから
確かにポルノとして消費される傾向を持つのは否定出来ない。
ここに制作者が甘えてしまうとエロが作品内で肥大化し目的化して
エロゲの質の低下を招くことになる。
他人では無い自分がセックスしているのだとプレイヤーに実感させる作品造りが、
現在凋落しているエロゲが復活するためにも求められている。
アニメも「エロ」との直接的、間接的なコラボを模索するようになり
これは、分離され要素となったエロの変容を指している。
ヒロインを生涯の伴侶とすべく捧げる情熱は、愛玩と眺めの対象に抱く「萌え」に変化してしまったのである。
エロゲの本質は、1クール毎に違うヒロインに萌える軽薄なオタクに冷水を浴びせる。
いつか萌えに限界が来たとき、ヒロインとのセックスの可能性を含んだエロゲが歴史として
学び直されることもあるのかもしれない。
それは現実の男女関係という三次元に近づこうと、二次元の中でセックスを立体化させるべく模索していた形式だからだ。