オタクの時間と卒業

時間とは自分の中に自然と生まれる資源でありながら、貯めることは不可能で

自分でコントロールしないと消え去ったり他人に支配される性質を持っている。

 

オタクといえど社会人となり人生上のイベントを経るうちに可処分時間は減っていく。

以前と違ってアニメや漫画の鑑賞が只の消費となり、やがてそれらへの情熱も興味も失い

自分の子供がそれらの趣味に夢中になっていくのを温かく見守る、それが日本人の大半の生き方だ。

それは、余暇時間の減少に抗せず敗北してしまったオタクの姿でもある。

 

しかしオタクならばその過程で自らに問うたはずである。今までオタク趣味に没頭していたことは正しかったのか、と。

未来の選択は現在の価値観の偽りのない反映である。

そこでオタクである自分とオタク趣味を肯定できなくなると、オタクを卒業することになる。

 

有り余る時間の中でオタク趣味を楽しんでいた子供時代とは違って、オタクのままでいたいと願う大人は

より効率的な時間の使い方を求められるようになる。

それは消費速度を速くすることでは決してなく、対象を厳選し本質的でないものを切り捨てる態度であるべきだ。

与えられる全てを受け入れるのではなく自らの判断で選択する、それが望まれる大人のオタクである。

これまでのオタク人生を継続させようと義務的にコンテンツを消費するオタクは、

見た目こそオタクだがオタクの本質を失っている。

主体性を失ってしまうのならいっそオタクは卒業した方がいい。

人生経験を活かした判断による取捨選択、長い目で見ればそれは対象となるコンテンツを育てるはずだ。

 

オタクを卒業できない大人は、現状においても社会から否定的に見られているが

彼らが「長居」してきたことで、アニメや漫画やゲームが大人の鑑賞に耐えられるものに進化したのも事実である。

そしてそれらの趣味がまたオタクの長寿命化に繋がるという好循環もある。

 

一人ひとりの大人になったオタクの人生の岐路における決断が、オタク文化に影響を与えているのである。