カードゲームオタクに見るオタクの原型

ネットの評判を見るとカードゲームオタクは人間の扱いをされていない。

彼らは異臭や奇怪な行動で話題になる。

オタクやその対象は等しく価値があり、ましてやランク付けなどされるべきではない。

オタクはそれぞれ好きなことに邁進してほしいと思っている筆者だが、カードゲームオタクは"特別"な存在と思っている。

なぜ特別なのかその理由を探ることで、世間から疎外されるオタクそのものが見えてくるかもしれない。

考察の対象は成人のカードゲームオタクとする。

 

1つ目。「子供の中にいる大人」

カードゲームのプレイスペースで子供が遊んでいる中で成人しているであろう男性を見ることがある(なぜか成人女性は見たことが無い)。

存在してはならず、そして全力で消し去りたい光景がそこにあるのだ。

子供の遊び場にいる大人の凄まじい違和感たるや筆舌に尽くし難い。

「遊び」は子供のもので、大人はそれから卒業することが本来求められているのだと再認識されられる瞬間だ。

 

2つ目。「演じることを強いられる」

アニメや漫画のキャラに共感してその言動を真似るのは子供の頃の思い出だ。

大人がそのような言動をすると当然イタい。

カードゲームにおいては、まるで罰ゲームの如く各場面でプレイヤーに掛け声を発することを求めている。

カードの効果説明や必殺技名は、普段日常生活では決して使わない浮いた言葉だ。

良い大人がその身を持ってフィクションの物語の演者になるのは恥ずかしいことだ。

物語は鑑賞するもので、自ら体現して表現するものではないということを教えられる。

 

3つ目。「現実の自分を忘れる」

ゲームの世界で楽しめればいいと言う思いが優先しすぎると、現実の自分が疎かになってしまう。

異臭を放とうが奇怪な言動が周囲にどう映ろうが構わないのである。

娯楽の世界を内包する現実世界が厳として存在することを決して忘れてはいけないのだ。

現実世界と時間の中にいる社会人は変化を求められている。

遊びの世界に留まり変化を拒むようなモラトリアムを続けていると将来多大なツケを払うことになる。

 

以上の理由は、大なり小なりカードゲーム以外のオタク趣味に当て嵌まってしまうのである。

可視化されやすいので目立つだけだが、決して他人事として蔑んでいる場合ではない。

オタクでいることがどうしても人目に付いてしまう彼らを見て、オタクとしての我が身を振り返る必要があるだろう。