拘りのオタク

一般人とオタクを分けるものが何かと言われれば、それは拘りでいると言いたい。

拘るからこそオタクは作品を情熱的に語り、グッズを集めイベントに参加するのである。

現在は偏見は薄まりつつあるが、二次元に執着するオタクへの蔑みは未だ残っている。

筆者は常日頃、オタクが作品を楽しみつつ人として劣らないようにするためにどうすべきなのか考えているのだが

簡単には結論が出せないのである。

 

世間一般の人たちは、娯楽や精神的充足の為にドラマや映画を鑑賞しているようなのである。

それら作品からエキスを得た後は振り返ることはしない。

翻ってオタクは、作品の感想を語り作品から派生するモノやコトに没頭する。

つまり一般人と比べてオタクは作品の「滞在時間」が長いのだ。

その滞在時間の過ごし方がオタクを人として様々な面で劣化させていることが課題なのである。

 

だからオタクも一般人と同じように作品に深く拘らずに楽しむべきと結論付けたくなるが、筆者には迷いがある。

「楽しんで終わり」を良しとする受け手には、それなりの作品しか供給されないのではないかという疑念故だ。

漫画やアニメは一時的な満足の為の生産物、つまりエンターテインメントではない。

それらと違って情熱を長く捧げることが出来るのものだとオタクとして誇っている作品群である。

当然、それは作者が作品に込めた情熱の反映と言える。

 

しかしながらオタクの作品鑑賞が一般人化していく流れもある。

作品の供給過多や人生ステージが進むことによる社会人の可処分時間の減少は、

作品の浅い鑑賞を強いる要因だろう。

アニメの場合だと、作品のコストと利益を考えた配信会社の提供も間違いなく作品の傾向と質に影響を与えるはずだ。

 

その困難の中でも、深く、しかし決して溺れないような拘り方で作品を支えていくオタクがいるはずだと信じたい。