厄介が自らの過激なコールが与える出演者やイベントへの悪影響を省みず、
そしてどこまでも自身を肯定してしまう理由は何なのか考えてみたい。
彼らは好き勝手に家虎を叫んでいるわけではない。
一応は曲のメロディーに沿うように行っており、
しかもアドリブではなく、事前に練習を重ねて狙って行うのである。
そしてそのコールが場を盛り上げると確信している。
誰も言わないが筆者は遠慮なく言うことにする。
家虎勢の行動原理は音ゲーのプレイヤーのそれと瓜二つだ、と。
歌唱や楽器演奏の習得ほど難易度は高くなく、リズムを増幅させることで場を盛り上げると勘違いさせ、
自らをステージの主役として参加させることに成功させたもの、それが音ゲーである。
自然発生的な合いの手やエールとは全く異質の家虎コールだが、以上の音ゲーの文脈から考えると納得出来る。
言うまでもないが、音ゲーが家虎の原因と短絡しているわけではない。
音ゲーを産み支持をしてきた我々の心的傾向が、家虎勢の自らの正当化に繋がっていることが言いたいのである。
こうなると厄介の心理としては演者や他の観客が自分を引き立てる脇役と考えるのは当然である。
観客が演者と張り合おうとは失笑物だが、音ゲーには彼らにそうさせるようにハードルを下げた責任がある。
ただリズムに乗るだけのパフォーマンスが、自分を主役と錯覚させたことだ。
演者の価値と努力を蔑ろにして、他の観客と分かち合うべき会場の雰囲気をぶち壊す振る舞い、
それは絶対に許されるものではないが、そのコンテンツのソシャゲと言えば
大半がストーリーが付属した音ゲーそのものである。
以上のように帰結して、申し訳無いが筆者は内心笑ってしまったのである。