元々オタクは与えられる題材が無いと成り立たない存在である。
拘る対象があってこそのオタクだ。
しかし近年、アニメとアニメオタクを廻る状況に不安を覚えることがある。
前提として、アニメの製作は視聴者に媚び易いということは忘れないでおきたい。
先回りしすぎなオタクの嗜好への配慮、予想される反応への狙い過ぎる仕掛けを見かける度に
オタクとして興醒めしてしまうのである。
そしてアニメ作品が、創作物からオタクを悦ばせる快楽装置に変質しつつあることへの怖さも感じている。
そこから感じて掴み取ろうとする「個性」が強制されるものならば、それは「ファッション」と呼ばざるを得ない。
視聴者の振る舞いや在り方をあまりにも規定してしまう故だ。
本来は多様な題材が含まれる作品があって、それを自由に解釈するオタクがいた。
従来の世界はファッション化する両者によって変わりつつある。
オタクのファッション化には更に意味がある。
他者を意識させる道具化である。
ファッション化したオタクにとって、アニメ作品というのは没入してやがて自らの内部に取り入れる対象ではない。
自分の外部に置くことが出来るものなのである。
視聴歴を披露することで自らを修飾するものであり、他のオタクとの差異を覚える契機となるものである。
個々の作品に囚われないが故に、ライトな存在として近年オタクが市民権を得たとも言える。
元々アニメの世界には見られて発展してきた現象だが、筆者としてはアニメだけに留まって拡がってほしくないと願っている。
自由と拘りこそが作品に対峙するオタクの本質と思っているからだ。