筆者にとってレビューや考察の記事を書くのは気が重い。
分野が競合する他のオタクの存在が脳裏によぎるからだ。
ネットでのオタク同士の戦いの昔と今、同じようでいて様相が変化してきたことを振り返ってみたい。
昔のオタクは一国の城主だった。
自身のブログやサイトを築城し、それを堅守し、また自らも攻め入ることもあった。
己を確立する時間的猶予があり、競争相手も手に負える範囲で有限だった。
孤城に引きこもったまま他と関わらないオタクも居ただろうが、城へコメントしてくる者との小競り合いや
某匿名掲示板に遠征したことが、変革の兆しになったように思える。
そこでは無数の匿名のオタクとの戦いが待っていたのだが、彼らは足軽のように見えて実は手強い。
無能は多くとも少数の有能によって成果が上書きされるので、多くの有能を相手にしているのと変わらない。
しかも誰が同一人物か分からない状況で対決することになる。
対してこちらは一人である。
まれに勝てることはあるが、敗北することが常だった。
ある程度の時間的猶予の中で確立した自分と武器となる解釈で
勝負を挑むことが出来た最後の時代である。
今では主戦場がサイトやブログ、匿名掲示板から
SNSに移ったことで、
オタクは時間と更なる多様性との戦いを余儀なくされることになった。
正しいものでも最初に提出されたものが評価され、半匿名の競争相手が激増した。
そこは競争と言うより、対象の空白を埋めるべく
他者との「解釈の協業」が行われる場所である。
他者との協力に意欲的な者が報われ、能力が劣る者は存在感を発揮出来なくなった。
誰しも集合知が完成するために奉仕する名も無き存在とされてしまうのだ。
ただ圧倒的な能力を持ったオタクだけは特別で、常に先導し羨望を集めながら
エリートとして前時代的な振る舞いが許されるだろう。
筆者はその任に耐える能力は無いと自覚しているし、他のオタクと関わる気は一切無いので
このブログで旧態依然たるオタクとして存在している。
完全無欠の集合知に敵わないとしても、未知に挑み解釈を積み上げ、
一人で完成形の答えを出すことこそ意味がありまた意欲的にもなれるからだ。
古いオタクと言われようが、二次元の辞書の編纂員になることは
筆者にとっては退屈なことなのだ。