不毛の反復

筆者は以前劇場アニメに否定的な記事を書いた。

現在世間を賑わせている作品があるが、それのオタクの消費の在り方を見て

新たに発見した問題点を指摘するために今回の記事を書く。

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当該の作品が必ずしもこのような意図で製作されたのかは分からない。

しかし内容を理解するために何度も映画館に足を運ぶことが求められる作品らしい。

オタクに時間と金を費やさせ全く同じ行為を反復させること、

それはオタクが自ら堕し、そして他人から侮蔑を招いてきた消費行動なのである。

今ではコンテンツの供給側が仕掛ける罠であり、ただでさえ生産的でないオタクに

無用な消費を強いて人生や人格に悪影響を与えている。

一方の人生の損失を基に片方が得している構図で、とてもまともな生産者と消費者の関係ではない。

 

作品の理解が己の内で完結して満足すれば良いが、それで収まらないのがオタクである。

次に踏み出すのは他のオタクとの対話である。

他者との議論を通じて真の理解を望むオタクを邪魔するのは、

またしても劇場アニメの特徴なのである。

互いに理解力を競おうとする前に、絶対に求められる能力があって

それが記憶力なのである。

どんな感想も考察も脳内の記憶無くしては生まれない。

TVや配信で提供される作品ならいつでも参照出来て何の問題も無い事が、

劇場アニメではそうはいかなくなっているのである。

記憶力の差ごときでオタクの議論の場の参加資格を失うとは馬鹿馬鹿しいことで、

長い目で見ればそれは作品が正当な評価が下されにくくなる恐れに繋がるだろう。

 

劇場アニメとは、オタクにとって従来当たり前であったことに障害を課すことで

儲けを出すビジネスモデルである。

オタクに負担を課しオタク同士に差を付けることが本当に良いことなのか制作者は自問してほしく思ったのである。

当落線上の面白さ アニメ『七つの魔剣が支配する』感想

今期アニメ『七つの魔剣が支配する』は、PVを見て何かは分からないものの

引っかかるものがあって気になっていた。

2話まで観てよくあるラノベアニメだと思って切る可能性も芽生えたのだが、

以前の引っかかりは頭を去らず念の為原作のレビューを調べてみた。

そうしたところ軽くネタバレを食らってしまった。

普通ネタバレをされると作品への興味が失われるものだが、

この作品に限っては筆者は俄然視聴意欲が湧いたのである。

上手く目と意識は致命的なネタバレを避けてくれたと思うが、朧に残った記憶の中のネタバレを元に作品を見直すと

主人公の行く末が大変気になってしまうのである。

 

まず主人公のオリバーは、舞台となるキンバリー魔法学校に"入学"をしに来たわけではない。

話数が進んで主人公の真意が判明したなら視聴者に相当な衝撃を与えるだろう。

オリバーが感情の起伏が少なく特徴の無いラノベによくある主人公に見えて、

実はその性格は過去に関係があるのだと想像すると独特な魅力が掴めてくる。

 

その彼も二度激情を触発された場面がある。f:id:nizinokakari:20230719201036j:image

最初は、ナナオとの殺し合いに発展しそうになった試合の最中である。

冷静沈着に見える彼にも、相手の決死の本気に応えるための激しい衝動を持ち合わせているのである。

その衝動は彼の計画を遂行するエネルギーとして発揮されると推測される。


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次に、ナナオから再び真剣勝負を望まれた場面である。

それを断ったオリバーには、殺人への絶対的な拒絶が垣間見えて

それは彼の計画を阻害しかねない理由にもなりそうなのである。

これらの内面の相克がどうアニメで描いてくれるのか楽しみである。

 

そしてもう一つ気になるのが仲間との関係である。

オリバーの目的から考えると、彼らとの関係は学校の友達と言う次元では無いのは明白だ。

物語における彼が学校で築く仲間の絆の意味、そしてそれが後々の展開にどう作用するのか気になるところである。

 

ストーリーとキャラクターは断然注目しているが、作画と演出に不安要素が多く全力で人に勧めにくいのは残念である。

アニメ「七つの魔剣が支配する」ノンクレジットOP映像
https://youtube.com/watch?v=R-4iZGvMlgA

しかしOPは今期一と評して良いほどの出来だったので、それに倣うように

見せ場は重点的にハイクオリティに仕上げてくれると信じて最終話まで視聴したい。

抜け駆けのフラスタ

オタクと自己顕示は切り離すことが出来ない。

声優オタクも同様で、推しの声優に認知されようと模索し、やがて巧妙な方法を発見した。

それがイベント会場で飾られるフラワースタンド、通称フラスタと呼ばれるものである。


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店舗や式場に贈られるシンプルな花輪に留めておけば、オタクも責められることは無かったかもしれない。

しかしオタクの自己顕示の性はタガが外れてしまったようである。

フラスタに付随するのは贈り主としての自分の名前や代名から始まり、キャラクターではない演者の似顔絵に、

更には自筆のメッセージまで添えられてあって自己顕示のてんこ盛りと言った様相だ。

ここまで自身を特定される要素を盛っていれば推しに認知されるのは間違いない。

しかもそのフラスタの写真を推しの声優がSNSに上げることまでしてくれるのだ。

それは、推しによる確実な認知の証明と言ってもいい。

ファンとしては昇天しそうなほどの満足感を覚えるだろう。

 

しかし筆者はそう遠くない時期にこの抜け道は塞がれると考えている。

理由は2つある。

最初の理由は、イベントに参加した他のファンが抜け駆けを許さなくなるからだ。

フラスタを贈った者だけが特別扱いされている現状の認識が広まれば、

認知の格差に対して他のファンが黙ってはいないだろう。

そしてフラスタをめぐる認知合戦が過熱するほど様々なトラブルの発生も予想される。

 

次の理由は、贈られるフラスタの数と装飾の違いでキャラクターや演者の人気の差が可視化されるのを防ぐためだ。

声優のモチベーションに関わる問題であり、共演者同士の関係にも悪影響を与えないために配慮されなければならない。

 

以上の理由でフラスタは何らかの制限を受けるだろうが、

フラスタ自体が禁止されるとは思わない。

その外堀を埋められて行くとして、まずは声優がフラスタの写真をSNSに上げる習慣は無くなっていくはずだ。

ファンの想いは受け取るが内容までは第三者に共有させない、

つまりはフラスタをファンレターと同じような扱いにすると言うことだ。

 

しかし、しばらくはフラスタに自分の認知を託すファンたちのボーナスタイムは続くのである。

彼らはもちろん、贈られた側の声優が責められるような事態でさえ起きることも覚悟しておきたい。

対策を練るにはある程度の事例の集積が必要なわけで、

解決の日を迎えるまで我々はオタクの醜態の数々を目にすることになるのだろう。

伊達さゆりさんの測られたくない話

伊達さんは普段からアイドルを演じているところがある。

仮にプライベートな一面を見せる時でもアイドルの雰囲気は消え去る事はない。

しかしそんな彼女のベールが剥がされた瞬間があったのだ。

 

『伊達さゆりのあと8cmは伸ばせます!』第16回で、番組に採用するコーナーを募集した企画で

リスナーから体力テストを提案された時の伊達さんの反応だ。

そのメールを読む彼女の表情は曇り、テンションの下がりようも目に見えるほど明らかだった。

番組を覆っていた楽しいムードは徐々に消え、彼女の地が現れ始めたのである。

やりません!絶対にやらない!何が何でもやらないんだから!

せっかく考えて送って下さったんですけど、私本当に駄目なのよ。

だってさ、好きな人います?逆に聞きたい。

『体力テストだ、よっしゃ』っていう人あんまり見たこと無いよ。無いの。

本当に嫌です。本当に嫌なの(笑)

企画のコーナー名ガン無視でゴメンね。

やりたくないでしょ。握力とかだったらいいですよ全然。

私、本当何かね、タイム測られるの苦手なんですよ。嫌いというか。

ゴメンね。これだけは言わせて。嫌いなんですよ。

何かこう、測られたりとか、自分の技術面、能力とか、それこそ生まれ持った能力、

身長じゃないよ、身長は違うんですけど、

なんかそれを数値化されたりとかするの、(もう)いいって感じになります。

だって、無理無理無理無理無理無理無理。

伊達さんは嫌いだったり苦手な物があったとしても、

必ず配慮してオブラートに包んで否定的な言葉をそのまま口にはしない。

筆者は少なくとも彼女の個人ラジオでほとんど聞いたことがない。

そんな彼女が否定を超えて拒絶の意思を言葉にしたことが衝撃だった。

伊達さんと言えば優等生のイメージで、それは学業を始め

数字で測られるような様々な分野で上位を獲得してきた雰囲気を感じさせていた。

しかし当の本人は人を数字で測る物差しが大嫌いだったのだ。

 

数字で計測されて残った結果は他者との優劣を意識させ、そこで生まれてしまう優越感やコンプレックスを好まないのかもしれない。

あるいは、数字で測る基準、言い換えれば既存の価値観に忠実であることを尊ばないということかもしれない。

 

それらを補強するようなインタビューは最近公開された。

 

伊達さゆりの「手さぐりの旅」 第9回 初めて参加したライブで記憶に刻みつけられた きゃりーぱみゅぱみゅさんの「もったいないとらんど」(中編)
https://febri.jp/topics/series_sayuridate_9-2/

一番好きで成績が良かったのが、人と違うことが評価され尚かつ他人に理解されなくてもいい「美術」だったのである。

数字が関与する科目ではないのは言わずもがなである。

 

とすれば彼女が芸能界の声優を志望したのも必然だったのかもしれない。

成績やノルマに追われる社会人とは違う「外れ者」が目指す職業だ。

そこは数字で測られない個性を競い合う場である。

僅かに姿を覗かせてきた、優等生から逸脱する曲者のイメージ。

彼女の本当の理解は一筋縄ではいかないものだと思わされたのである。

アニメ『幻日のヨハネ』感想

アニガサキのフォーマットが適用された異世界もの、そう言っても差し支えない構造なのだが

尋常では無い細部の作り込みと溢れる郷土讃歌のテーマがこの作品に個性を持たせている。

後の感動に繋がる破片を取りこぼさないように努めた視聴者は、作品の真価に触れられるだろう。

 

人生に行き詰まったヨハネにお金を無心された母親の言葉は印象深い。
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娘の人生の成功どうこうより、まずは誕生日を祝うのである。

そしてトカイの生活で無理して気を張っているヨハネを気遣う。
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ヨハネ、大事なのは何処にいるかじゃないわ。

誰と何をするか、よ。

母親からは自宅の窓から人生の目標と思しき星が見えているのに対し、

ヨハネのいるトカイでは街の光のせいで星が見えない演出も効いている。

「あなたが生まれた場所」と「あなたを知っていて共に夢を叶える人たち」がいるのは故郷だと、

母親はヨハネに示唆を与えているのである。

それはやがて物語で答え合わせをされる故郷のテーマの問いかけでもある。


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「ただいま」を言えないヨハネにとっては生まれ故郷も異邦の地であり、

見かけた幼馴染のハナマルも昔の友達でしか無かった。

帰省直後のヨハネの言動を見ると、懐かしさだけを理由に

土地や人に愛着を持たせようとしない制作者のポリシーを感じる。

課題を乗り越えるにはもう一段階ヨハネに手順を踏ませたいのだ。

 

ヨハネの更生にはライラプスの存在は絶対的だ。

風で飛んできた店のチラシをハナマルに後で返そうとしたヨハネへの言葉。


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後なんかあるのかな…。

建前としては再起には何度もチャンスがあると言えるが、本当は時間的な制約があって

ヨハネにとって逃してはならない機会はこの帰省の時だということだろう。

 

異変が起きた街を見捨てようとするヨハネに投げかけた言葉。


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何も無いからどうなったっていい…、か。

去った人、そしてもしかしたら住んでいる人たちにとっても

過去だけが堆積している不毛の地、それが故郷だと寂寥混じりの呟きだ。

絶対に他人に代替されない故郷で過ごした思い出と記憶が打ち捨てられているのである。

だからこそ故郷が再生されるには、人々がそこで生きてきた証を今に繋げる必要があるのだ。

それが分かっているからライラプスヨハネを森の切り株に案内したのであり、

そこで再会したハナマルの励ましの言葉は彼女にとって決定的となった。f:id:nizinokakari:20230628205155j:image
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マル、聴きたい。

ヨハネちゃんの歌を。

今、この場所で。

幼い頃自由気ままに楽しく歌っていたことを覚えてくれていて、しかも思いかけずも夢を与えていたハナマルとの関係を知った。

彼女を通して過去の自分と邂逅し、今に繋がる自分を自覚したヨハネは自信を取り戻す。

 

TVアニメ『幻日のヨハネ -SUNSHINE in the MIRROR-』 第1話挿入歌「Far far away」 
https://youtube.com/watch?v=7Hli9vemRMk


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頭のお団子を蕾に見立て、それに花弁を施した意匠は

言うまでもなく花開こうとする彼女の姿である。

無垢の純白に、成長の兆しとなる裾の淡緑からなるシンプルな衣装は

幼き日のヨハネのイメージだろう。

背景も相俟って開花しようとするヨハネを高らかに歌詞が綴る。

ヨハネの失われずにいた純真が、新たな変化を受け入れていく様を描いた傑作MVとなっている。

 


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故郷の最初の友達となったハナマルから「お帰り」と言ってもらい、

ようやく「ただいま」と言えたヨハネの課題は解決し、

広がっていく人々との交流と故郷への定住を予感させる描写でもって話は終わった。

1話にして完結しており、同時に作品全体も内包しているであろう構成と完成度に驚くばかりである。

正直に言うと、今後の魔法とバトルのファンタジー展開に不安は大きい。

しかしそれによって作品が評価を落としたとしても、この1話の感動は揺るがないだろう。

素材となる彼女たち

ドッペルゲンガーは存在そのものが気持ち悪い。

存在する理由や経緯の如何を問わずにである。

 

先日、女性声優のとある物を見てしまい警告を発するために今回記事を書いている。

現在一部の好事家の慰み物になっているクローンは、やがては業界に激震を走らせるだろう。

その無邪気でもあり邪悪でもある企みに抵抗するには、まずは声優のオリジナリティを定義することが必要で

その後にオリジナリティを徹底的に守るルール作りをしなくてはならない。

これまでは声優が"複製"されることがあっても部分的で静的なものであったが故に、

面白おかしく利用されて双方にとって笑える思い出も生まれることもあった。

しかし新時代の技術は完全な声優のリアルが作

れてしまうので、そんな牧歌的な過去でもって酌量される事態とはならない。

圧倒的な生々しさを持つクローンが声優に与える影響とストレスは、これから新しく観測されていくだろうが

声優が共存を許そうと思えるほど軽微とは考えられない。

 

現実の社会で人間のクローンを作られることに厳しい規制があるように、

仮想空間における声優のクローンも断固たる態度で臨まないといけない。

声優個人や事務所単位ではとても対処出来るものとは思えず、業界全体での取り組みが求められるだろう。

クローンに関しては、商業化の有無・利用方法・公開非公開などを一切考慮せず

クローン生成自体を禁止する方針しか声優を救えないのではないだろうか。

消えゆくあなたへ

彼女のことは初のメインヒロインを務めた作品の頃から知っている。

当時、声オタが槍玉に挙げていた棒演技に関しては筆者もそう思っていたが、

声はキャラクターに合っていたので味わいのある棒として楽しめていたし

経験を積んで結局は演技も上達して期待の新人と言えるポジションにはいたのだろう。

しかし何作かメインキャラを務めた後に全く見かけなくなってしまった。

それはただ筆者の視覚から消えただけであって、筆者の知らない領域で彼女はそれなりに活躍してるものだと思っていた。

だが彼女の最近の消息を知ってしまい衝撃を受けた。

自らを毀損するような人間は助けようがない。

それは医者が必要とされるレベルなのである。

 

筆者は現在に至るまでの彼女の事情を知らないし、

ここで心配したり救済の手立てを考えたとしても薄っぺらいものになりそうだ。

批判ではなく彼女から引き出した教訓、それを他人と共有することでもって

せめて彼女への敬意の証とさせてもらいたい。

 

既に消されてしまったが彼女の肉声で伝わったのは、自分を細分化する危険性だ。

彼女は本当に自分の評価や評判を病的に気にしている。

現代の即時的なSNSは彼女にとって致命的で、短期間というよりリアルタイムでの他者評価に敏感になりすぎている。

努力の成果は時間が経ってから現れるもので、短い期間の評価など思い切って無視してもいいくらいである。

区切られた期間が短すぎると方針が立てられないし、その場限りの対処では成長出来ない。

これが自分の時間の細分化の弊害である。

 

SNSは彼女には相性が最悪で、簡単に繋がったオタクとやり取りしているのは悪夢でしかない。

時にエゴサをし、時に直接オタクからの反応に呼応して消耗する。

最近見かけただけでもこんな調子なので、これまでの知らない間に数え切れないくらい同様なことがあったはずで、

もうそれは修復不可能な傷を彼女に残したのだろう。

彼女が相手にすべきはそんなオタクではなく、長期的に友好関係が築ける人たちであったはずだ。

ネットのせいで広域でありながら直接関係が持てるように錯覚するのだが、

実は偏重化した範囲で刹那的なやり取りしか出来ないのがSNSだ。

これが人間関係の細分化の弊害である。

 

彼女は自分を支えてくれたファンにも侮蔑する発言をしてしまっている。

かと思えば後からファンを求めるような発言をする。

どうしてこんな矛盾をしてしまうのかと言うと、思考が出来なくなっているからである。

前後を考えず今の自分の意思に従ったり、他人にすぐさま反応して場当たり的な振る舞いをしてしまう。

本来、人間は入力を貯めてバリエーションのある出力が出来る生物なのである。

与えられた作用に従いそのまま反作用をするのは動物なのである。

これが思考の細分化の弊害である。

 

では細かい事に目を背けるべきかと言われるとそれは違う。

区切られた中での評価や関心、そして注力こそ成果が上がりやすいものなのである。

バランスは求められるのであり、一方に偏すると彼女と同じ轍を踏むことになるのだろう。

推しは一方通行

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地獄の季節がやって来る。

コロナ禍で失った利益を取り戻そうと声優をファンの矢面に立たせるイベントが、

今年から溢れかえるほど実施されるだろう。

今でさえ接近イベントでのファンの醜聞をちらほら聞くレベルなので、

将来的には警察沙汰になる重大な事案が発生するに違いない。

原因はファンの認知欲求である。

 

この問題への対処として、まず声優とファンは対等ではないという基本的事実を改めて認識しなければならない。

一対多の非対称の関係であり、それでもファンが一対一の関係だと錯覚してしまうのは

そうすることでファンを増やし彼らの忠誠心も高めたいとする関係者の戦略に過ぎない。

そのような中で声優にファンへの個別的な認知が発生する場合は、必ず異常で不愉快なものが伴うのである。

 

大抵のファンにとって接近イベントは一方通行の虚しさを感じながらのコミュニケーションとなるはずだが、

筆者はそれで良いと考えている。

憧れの声優を間近に見れて自分の言葉を伝えることが出来る。

それ以上を望むのならば思い上がりも甚だしいと言わざるを得ない。

声優が多数のファンに存在を知られ応援されるのは、一個人を映像と音声でもって増幅しているからだ。

イベントで会う生身の声優はその拡がったイメージの源である。

ここで、だから個別に認知してもらえるチャンスと考えるか

若しくは逸る気持ちを自制して応援するかで

厄介とファンに分かれることになる。

 

推したら「推し返されたい」と願うのは人情であって、そのことで厄介を責められはしないが、

その衝動に身を任せて個人的な関係を築こうとして声優を困らせるとなると話は違ってくる。

代償を求める対象は、結局崇拝の対象でも無くなってしまう。

ファンと声優は人と神の関係を思わせるところがあって、共に近付こうとすると

両者の関係を瓦解させる展開が待っている。

距離を置くから崇高な関係が築かれているのであり、

声優を売り出すための彼らに纏わるサービスに乗じて

双方向の関係が持てるなどとファンは夢を見てはいけないのだ。

立花日菜さんの諦めから自己肯定が始まった話

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よりマイナーな配信媒体に移りアングラ感が増した『立花日菜のラジオのひな形』の第7回で、

これまで以上に深く彼女の精神遍歴を聴くことが出来た。

筆者の引用も尺の都合上一部に留めており、彼女の内面を知ろうとするファンには是非とも全編を聴いて貰いたい回だ。

 

全ての始まりは自己肯定感を持てないと悩むリスナーからのメールだ。

まずは冒頭で、時折ファンから自己肯定感が高いと見られてしまうことに対して彼女は否定する。

昔からラジオを聴いてくれてる人は知ってると思うけど、

本当に陰キャの、自分に自信が無い極みの人間だと自分で思ってるから。

表面上のパフォーマンスや言動だけを見て立花日菜の理想像を作り上げて崇めるファンは、

ニワカの誹りは免れないだろう。

彼女がコミュ障で怠惰で自己中心的なおおよそ人間の負の性質を掻き集めた存在だと理解するには、

これまでの膨大なラジオの予習が必要で、そのせいで新旧のファンに分断が生まれるのは不幸なことかもしれない。

 

本当の自分だけを見てくれる者を選別すべくファンを篩にかけた後に、

本題に入って悩めるリスナーに彼女は答える。

自己肯定感を上げるには、私がやってる方法だけどマジで諦めてる。

もう自分は糞みてーな人間だから、糞だわって思ってる。

手法としてはそれこそヤケクソでネガティブなものだが、そこには新たに踏み出されるであろう力強い歩みへの期待がある。

続く自己分析でコンプレックスが語られていく。

自分が良い人になろうとすると良い人じゃないからしんどくなっちゃう。

私は全然マジで良い人じゃないし、性格良いか悪いかで言ったら

マジで性格が悪くって、性根が本当に腐ってるんですよ。

それを自分で分かってるから、身近にいる友達とか本当に人が良い人に出会うと

なんで私ってこういう風に出来ないんだろって思っちゃうのね。

それで凄い嫌いになっちゃうの自分のことが。

その後悔は、自己の確立を成せずに自他が求める自分の虚像に振り回されていたであろう青春時代を想像させる。

そして果てのない迷いの末に結論に辿り着く。

でもなんか、それめっちゃ意味無いなって何年かお仕事させてもらって気付いて。

(中略)

実際自分のこと評価してんのって自分だけなんだよね。

漸く自分に立ち戻る境地に至ったわけだ。

自分が世界の始まりだとする悟りとは違って、

他者への反発を含むエゴイストの開き直りのように見えるが、

過程はどうあれ結論が同じならそこは彼女を評価しても良いのだろう。

 

 

一度心を焦土にして人との交流を求める姿勢に成長を感じるが、

その前にこれまで抱いてきた人間関係の考え方を彼女は披瀝する。

私は結構上とか下とか考えちゃうタイプの人間だから、

上とか下とか考えちゃった時に優先順位とか付けちゃうと難しい…な。

自分が本当に良くないんだな、自分の優先順位ってみんなの中で凄く低いんだなって思っちゃうこともあるのよ。

彼女にも、あらゆる人間に適用されて序列化してしまう一律の基準を疑わない青春時代があったのだ。

それは下の立場だと屈辱を覚えさせ、上にも立てない絶望をもたらす若者の焦燥感を駆り立てる幻想だ。

しかし彼女も20代半ばにしてやっとその幻想から抜け出しつつある。

でも優先順位が多分相手の中にあるわけじゃないのはなんとなく生きてから分かるけど、

どうしてもそれを感じてしまうみたいなことあるから、だから諦める!

自分が自分のこと必要としてあげないとさ、人間は一人では生きていけないけど

結局一人で生きているから自分が(自分を)必要としてあげないと誰も幸せになれないなって。

他者との比較を免れない人間同士の偏差値を競う者が資格を持つのではなくて、

ただの存在としてだけでも他者と対等に付き合えると気付いたのである。

それは優劣を感じずに、相性を求めて人間関係を遊泳する境地である。

但しゼロから踏み出す一歩から人間的に成長するのか、或いは人間関係の構築テクニックの蓄積に終始するのかで

大きく彼女の人生は分岐することも忘れてはならない。

ゼロ地点からの始まりにおいては心境と技術は一致して見えるので、

ここで楽観視して彼女の人生が好転したと言うつもりはない。

しかし彼女が否応なく人間関係に巻き込まれて、自分に占める他人の割合が増えていくのは悪いことではない。

彼女が頼りなく間違いやすい人間ならば、他者からの影響と助力でもって正されればいいからだ。

他者の存在は、彼女の独善を打ち壊す可能性を持っている。

 

最後は、自己肯定感を得た彼女が現在進行形で他の声優と交流していく様を綴ってこの記事を終えたい。

何年か声優さんをやらせてもらっていろんな人と関わるようになって、本当にみんな人望が厚くて。

でも喋りかけなかったら興味を持って貰えないし、

でも好きで仲良くなりたいから「好きなんです」「仲良くなりたいんです」って言ってたら、こっちにも興味を持って貰えるかも。

興味を持って貰うには興味を持つことが大事だなって凄い思います。

これ、お母さんの受け売りなんだけど、それを凄くこの年になって感じました。

失敗たちの責任者

オタクの関心と時間には限りがある。

そこに割込もうと様々なコンテンツが供給されるわけだが、

その良し悪しは必ずオタクに判定されていることは忘れてはならない。

作品の消費が、各個人にデータベースを蓄積させ判断基準が形成させる。

オタクは作品と構成要素の責任者を特定し、その責任を問う。

やがては先回りして供給される作品のクオリティを予想し、消費態度を決める。

究極的にはクリエイターと制作会社などの制作主体の名義がブランド化し、取捨選択の重要な対象となる。

数撃てば当たると言う制作方針は、オタクの蓄積と経験の特性を無視したもので

将来的に作品以前の理由で忌避されるリスクを齎す。

オタクを傷付けた一つ一つの失敗たちは霧消するのではなく、彼らの中で統合されて不信の原因となって

それを生み出した者たちに時を経て復讐するのだ。